火炎と水流
―交流編―


#6 花芽の秘密



「水流!」
彼の姿を見つけると、桃香は泣きながら駆けて来てぎゅっとしがみついた。
「何? どうしたんだよ、いきなり……」
「ひどいんだ。みんなが……。ひどいこと言ったの」
そう言ってなお、しゃくり上げる少女。
「誰かが桃ちゃんをいじめたのか? なら、おいらがそいつをつかまえてぶっとばしてやるぜ」
水流が言った。

「ちがう。桃香じゃなくて、お兄ちゃんがやられたの」
「お兄ちゃんって? 淳のことか?」
水流が訊いた。
「ううん、ちがう」
桃香は首を横に振った。
「泉野って名前のお兄ちゃんだよ」
「泉野だって?」
「うん。桃香、そのお兄ちゃんに親切にしてもらったの。でも、そこのお店の人が来て、お兄ちゃんを連れて行っちゃった」
それだけ言うと、桃香はまたしくしく泣き出した。

「連れて行ったって? 何でさ?」
「お兄ちゃんが万引きしたって……。でも、ほんとはちがうの。桃香、知ってるんだ。桃香はちゃんと見たんだから……」
「見たって何を?」
「男の人が、お兄ちゃんのポケットにガムを入れるところを……」
「何だって? ひっでえな、くそっ。それじゃあ、まるでおいらの時とおんなじじゃねえか!」
水流が憤慨する。

「桃香、ちゃんと言ったんだよ。お兄ちゃんはちがうってちゃんと言ったのに……。大人は信じてくれないの」
そう言って桃香はまた大粒の涙をぽろぽろこぼした。
「桃ちゃん……」
水流はそんな桃香を慰めようとしたが、何て言ってやればいいのかわからずに困惑した。

丁度そこへ火炎が帰って来た。手には大きなビニール袋を提げている。見ると、そのビニールに透けて『…川スポーツ』という文字だけが何とか読めた。
「水流!」
火炎が怒鳴る。
「ひゃっほう! その袋、もしかして……おいらの水泳パンツ買って来てくれたのか?」
水流が袋に飛び付いて言った。が、火炎はすぐにまたその袋を取り上げて言う。
「桃香のだ!」
彼は不機嫌だった。
「何だよ?」
水流が膨れる。が、そんな彼を無視して火炎が言った。

「貴様が泣かしたのか?」
泣いてる少女を自分の方に引き寄せて睨んだ。
「え?」
「桃香を泣かせたのはおまえかと訊いてるんだ」
いらいらしながら問いただす。
「やめて! 水流じゃないの。だから……」
桃香が止めた。

「そうだよ。悪いのはおいらじゃねえやい! 悪いのはこのコンビニの店長だい!」
水流が怒鳴る。
「喚くな!」
火炎も怒鳴る。
「どっちがだよ!」
二人が睨み合っていると桃香がさっき水流に言ったことを、もう一度火炎にも説明した。

「よし。おれが話をつけてやる」
そう言うと火炎は店の中へ入って行った。しかし……。そこには既に先客がいた。泉野の母親だ。火炎はそのドアの前で立ち止まった。
あとからそっと桃香や水流も付いて来る。その二人をそっと手で制して火炎が言った。
「おまえ達は帰れ。どうやら保護者が来たようだし、大丈夫だろう」
「そいつはわかんないぜ。あの店長は曲者だからな」
水流が言う。
「おいらの時だってさんざん勝手なことを言ってやがったんだ」
「しかし……」
火炎が強引に二人を押し戻そうとした時だった。いきなりドアの向こうから男の声が響いた。

「ははは。子どもを信じるですって? 奥さん、それだからこういうお子さんが育つんじゃないですか? 親の前だけはいい子の顔をした悪い子がね」
「でも、やっていないものはやっていません。ぼくはうそなんか言えません」
泉野がきっぱりと言い切る。が、それをねじ伏せるように店長が言った。
「何て根性のひねくれた奴なんだ。素直に謝れば許してやると言ってるのに……。こうなったら、警察に来てもらうしかないようだね。そうしたら、奥さん、ご主人の立場だって悪くなるんじゃありませんか?」
「主人とは関係ありません」
夫人もはっきりと言った。が、店長は譲らない。

「そうですか。では、明日の新聞が楽しみですね。私には新聞記者の知人がおりましてね。日頃から何かあったら相談に乗ると言われていたんですよ。市民に信頼されなきゃならない議員の息子が、まさか万引きとはね。失礼ですが、愛情不足なんじゃありませんか?」
勝ち誇ったように笑う店長。

「ふざけるな!」
ばんっとドアが開いた。水流が火炎を押しのけて店長を怒鳴りつけたのだ。
「な、何だね、いきなり……」
店長がたじろぐ。が、その少年の顔を見るとにやりと笑んだ。
「誰かと思ったら谷川君じゃないか。ははは。役者が揃ったね。二人はグルだったという訳だ」
「この野郎! おいらははじめから無実だし、こいつだって万引きなんてやってねえ! しかも、こいつにはれっきとした証人だっているんだからな」
水流が桃香を見て言った。

「おや。そんな小さなお嬢ちゃんに何がわかると言うんだい? 多分、何かと見間違えたんだろう」
「ちがうもん! 桃香、ちゃんと全部見てたんだ。知らない男の人がお兄ちゃんのポケットにガムを入れるところを……」
「桃香ちゃん……」
泉野がうなずく。
「どうやら、あなたの勘違いのようですね」
火炎も言った。
「そんな子どもの証言などあてになりませんよ。それに、あんた達、親もいないそうじゃないか。そんな子どもの証言など誰が信じると思います?」

「ぼくは信じます」
泉野が言った。
「私もこのお嬢さんの言うことが正しいのだと思います」
彼の母親も言った。
「おやおや、ご自分のお子さんを庇いたいのはわかりますがね、あまり極論を言われても困るんですよ、奥さん。さっきも言いました通り、このままではご主人の立場が悪くなるだけですよ。いや、それどころか、この街にいられなくなるでしょうよ。まあ、そしたら、あの土地は私どもが効率よく利用させてもらいますがね」
「あなた方ははじめからそのつもりで……」
母親の顔色が変わった。
「お母さん……」
そんな母を心配する息子。

「くそっ! 何て汚ねえ真似をしやがんでえ。人間の風上にも置けねえ! ここはおいらが……」
「よせ」
それを止めたのは火炎だった。
「火炎! てめえ、何で止めるんだよ」
「おれだって腸が煮えくりかえってるさ」
「だったら……」
「表に花芽がいる」
「何?」
「それに、人間の子どもも……」
「淳だ!」
そう言うと水流は慌てて飛び出して行った。

外に出ると、通りの向こうから黄色い重機がゆっくりと近づいて来るのが見えた。操縦しているのは、村田淳だ。このままでは店に突っ込んでしまう。
「やめろ!」
水流が叫んだ。しかし、淳は無視した。
「あいつ……」
淳にはまるで表情がなかった。ただ、ぶつぶつと妹の名前を呟いている。
「きっと誰かに操られてんだ」
水流は慌てて周囲を探した。すると、風に混じって微かに花粉のにおいがした。
「まさか花芽が……!」

「ほほほ……」
ブルドーザーの上にひらりと舞い降りる影。
「花芽! てめえが操ってんのか? 今すぐやめさせろ!」
水流が怒鳴る。
「何故だえ? この少年は妹の敵を取りたいと願っている。そして、その敵がここにいる。だから、ここへ来たのだ」
「こいつの敵は砂地じゃねえのか?」
「ここは佐原建設の息の掛かった店じゃ。そして、今、砂地もここにいる」
「何だって?」
水流が驚く。砂地は桃香にとっての敵でもあるのだ。そして、火炎にとっても……。

「だから、潰す!」
長い髪をたなびかせて花芽が言った。
「だけど……」
コンビニの中には関係のない客達が大勢いた。その中にはクラスメイトの泉野や桃香もいる。
「駄目だ! させねえ!」
水流は迫り来るブルドーザーの前に立ちはだかった。
「おどき! どかないと、おまえもろとも轢き潰してしまうよ」
花芽が脅す。
「させねえ! 中にはまだ関係のない奴らだっているんだ。桃香や泉野だって……。だから目を覚ませ! 淳! このまんまじゃ、おめえは本当の人殺しになっちまうんだぞ!」
必死になって呼び掛ける。が、淳にはまるで届かない。ブルドーザーはもうあと少しで店のドアに達しようとしていた。

「くそっ! こうなったら……」
彼は側溝から水を呼んだ。一瞬のうちに水の巨大な壁が立ちあがり、ブルドーザーの侵入を阻止する。
「行かせねえぞ! ここから先は……」
水流は水圧で重機を阻んだ。エンジンが唸り、車輪が空回りしている。
「よし! このまま押し戻してやる!」
水流は更に水圧を高め、水の量も増幅させた。少しずつ車体が後退する。
「いいぞ。このまま一気に押し返してやる!」
が、突然水の壁が破れた。花芽の髪が枝となって伸び、水を吸収してしまったのだ。

「何!」
水流は焦って更に水を呼んだ。が無駄だった。集めても集めても水は植物に吸われてしまう。
「畜生! どうしたら……?」
再びじりじりと店に接近して来る重機。店の中にいた人々もこの事態に気がついて窓ガラスの向こうから怯えた目をしてこちらを見ている。

「やめて!」
突然、店のドアが開いて桃香が出て来た。小さい桃香がブルドーザーの前に出る。
「だめだ! 桃ちゃん。危ねえよ!」
水流が止める。が、桃香は運転席に向かって必死に呼びかけた。
「お兄ちゃん、だめえ!」
すると、淳が微かにこちらを見た。
「真菜……」
「お兄ちゃん、お願い! やめて! こんなことしないで……」

――お兄ちゃん

「真菜!」
淳が運転席から飛び降りた。そして、もう少しでブルドーザーのキャタピラに轢かれそうになっていた桃香を抱いて脇に飛ぶ。
「お兄ちゃん!」
涙でくしゃくしゃになっていた顔を淳に向ける。
「よかった。無事で……。本当に……」
淳の頬にも涙が伝わる。
「何でえ。あいつ、やっぱりほんとはいい奴なんじゃねえか」
水流はそれを見てほっとした。が、ブルドーザーの進行は止まらない。

「やべ! 何とかこいつを止めねえと……」
水流は空っぽになっている運転席に飛び乗った。が、彼にはその運転の仕方がわからない。
「くそ! どうしたらいいんだい!」
適当にレバーを引いたり、ボタンを押してみたりしたが、前進は止らない。
「水流! どけ! おれがやる」
火炎が出て来て飛び乗った。
「よっしゃ! 任せたぜ、火炎。おいらは花芽を追う」
そう言うと水流は運転席の上に出た。火炎の操作で、ブルドーザーは店の入り口ぎりぎりの所で何とか停止した。淳と桃香も無事だ。火炎はブルドーザーの上に出た。が、そこにはもう誰の姿もなかった。ほのかに香る花粉の気配を残して……。
「まさか……」
火炎はそこから飛び降りると二人のあとを追った。


水流達は公園にいた。
「花芽! てめえ、何であんなことするんだよ?」
「すべてはあの少年が望んだことじゃ」
「あいつが望んでいたのはそんなことじゃねえ!」
水流が怒鳴った。
「では、どんなことを望んだというのだ?」
「あいつは……。ただ、妹が死んで寂しかったんだ。そいで、真実を知りたかっただけなんだよ。佐原建設がやらかしたひでえことを……。あいつは多分知ってたんだ。だから必死に訴えて、けど、大人は誰も信じてくれなくて……。だから拗ねてただけなんだ! あいつは……ほんとは心の澄んだいい奴なんだ。でなければ、さっきみたいに命懸けで桃香を助けるなんてことできねえよ」

「本当にそう思うかえ?」
「ああ。悪いのは砂地だ。砂地のせいで、いつもみんなが不幸になる。だから、一刻も早く奴をやっつけて、そいで……」
妖しい風が周囲を覆った。花芽の妖艶な瞳がじっと少年を見つめる。

「な、何だ? 急に身体が痺れて……」
「風下に立ったおまえの不運よ」
風に乗って花芽が笑う。
「何?」
花芽の髪がするすると伸びて、弦のように少年を絡め取った。そして、少年の身体を構成していたすべての水分を吸いつくすと、そこに残った玉を摘んだ。

「美しい……」
光に翳して花芽が言った。
「汚れない命玉の光……。わたしは、その命玉を食らって生きる。何千年の昔から……。愛しき者よ。さあ、この手の中へ……。わたしと一つにおなり」
桜の木が揺れていた。それをじっと見つめる烏。


「花芽!」
火炎が駆け付けて来た。しかし、そこには水流の姿がない。僅かに湿った土があるだけだ。
「水流はどこだ? 奴をどうした?」
詰問するように火炎が言った。
「ふふ、そのように恐ろしい顔をしては色男が台無しじゃぞ、火炎」
花芽が言った。
「昔は、その恐ろしい顔とて好きだと言ったじゃないか」
「ほほ。確かにそう言ったかもしれぬ。だが、あれはもう何百年も昔のことじゃ。そうだろう?」
「ああ、確かにな。お互いに思い出したくない過去だという訳だ」
「思い出したくないだと? わたしは今も変わらぬ愛を持っておるのじゃが……」
「おまえが興味あるのはまだ若い少年の命玉だけだろう。その若さと美貌を保つために……」

風の中で花芽が笑う。
「きついことを……。だが、そなたは特別じゃ、火炎」
すっと花芽の枝が伸びて男の身体に触れる。が、その枝はたちまち枯れて灰となって散った。
「貴様は植物。所詮、炎であるおれと交わることはできない」
「つれないことを言うな、火炎。昔はもっとやさしい言葉をくれたではないか」
「おまえと昔話を楽しむつもりはない。それより水流をどこにやった?」
「ほほ。それほどあの坊やのことが気になるのかえ?」
「……」
「火炎。おまえにとって、あの少年は何なのだ? それほどまでに大事な存在なのか?」
「……」
「ふふ。心配するな。少年の清らかな水の魂はこのわたしが取り込んで一つとなった。おまえの心配の種が一つ減った。どうじゃ? うれしかろう?」
「貴様……!」
彼の中で炎が燃えた。夕闇の中でその上半身から赤い硝煙が立ち上る。

「わたしを焼き払おうというのか?」
「そうだと言ったら?」
「ふふ。それもまた一興……。言ったであろう。わたしは今もおまえを愛しておる。愛する者によって焼かれるのであれば本望じゃ」
「黙れ!」
炎の手が花芽の着物の襟を掴む。一瞬閃く炎。だが、炎はそれ以上燃え移ることはなかった。見詰め合う瞳の奥で散り行く桜……。

「いい目をしてる」
花芽が言った。
「あの少年の目も……。おまえと同じように熱く燃えて輝いていた」
「だから、食らったのか?」
「食らってはおらぬ」
「何?」
「おまえの大切な者を奪ってはおらぬ」
そう言うと花芽は袖口から命玉を出した。透き通った水の揺らめきを持つ不思議な玉……。それを火炎に渡す。

「これが水流の……」
「身体の水だけをもらった。あとは、そなたの好きにするがいい」
そう言うと花芽は風に紛れて消えた。ただ一陣の桜の花びらを散らして……。


「ふっひゃああ。助かったぜ。あんがとな、火炎」
噴水の中からいきなり出て来た少年が賑やかに言った。
「馬鹿めが! 花芽が植物に由来する者だと知りながら……」
火炎が言った。
「だっていい奴かもしれないじゃん」
「奴は若い命玉を食らって生きる花影だ」
「何でえ。知ってたんなら、最初っから教えといてくれればいいのによ」
「おまえが素直に人の話を聞かないからだ」
「へん! どっちがだい」
水流がむくれる。そんな水流を無視して火炎が歩き出す。

「おい、どこ行くんだよ?」
水流が訊いた。
「桃香を迎えに行く」
「そいや、あれからどうなった? 淳は? それに泉野……。そうだ! あそこに砂地もいたらしいぜ。今から殴り込みに行くか?」
「今は……もういない」
火炎が言った。
「何でえ! 追わなかったのかよ?」
「おまえの方が大事だ」
「え?」
意外な言葉に思わず水流は足を止めた。

「おい、火炎、今何て言った?」
「何も言ってない」
「そんなことねえだろ? おいらのこと心配してくれたんだろ? そういう意味だよな?」
水流がしつこく訊く。
「うるさいっ!」
火炎は怒鳴ると、夕日と同じ色の炎となって地下に潜った。
「あ! 本性に戻って近道するなんてずりいぞ! 火炎! 待てよ! おいらも行くよぉ」
そうして、水流もまた水となって一瞬のうちに見えなくなった。